« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月

ひりょうす

第67回葩会のお昼ご飯です。

お菓子と合わせて、お昼ご飯にも南蛮料理を取り入れられないかなあ・・と考えまして、「ひりょうす」を作ってみました。関東では「がんもどき」と言われるものです。ポルトガルからは、揚げ菓子「ひりやうす」として伝来したそうですが、お菓子のひりょうすは今は伝わっていないようですし、お菓子から料理になった経緯もよくわかっていないそうです。

_pict4011_1材料は、 木綿豆腐、大和芋、きくらげ、にんじん、銀杏、ゆりね、舞茸等です。本格的な茶懐石の本に、豆腐と大和芋をすり鉢ですると書いてあったので、やってみたところ、ふわふわのひりょうすができあがりました。素材の味を楽しむために、だしは昆布のみでとりました。蕪、スナックエンドウ、吸い口は、実山椒です。

お弁当は、いつか、にんじんのオリーブオイル炒めでご紹介したものです。先日、このように笹を使った駅弁をいただきましたので、それを応用してみました。駅弁はお寿司でしたが、これは普通のご飯です。下に筍、卵、佃煮がのったご飯がもう一段あります。

あと、忘れてならないのは、当日持ってきてくださった新茶(煎茶)です。とても甘く、春の香りがしました。いただきながら、抹茶は、新しく摘んだお茶を、しばらく寝かせておいた方がいいように聞きますので、抹茶でこのような味がするのはいつなのだろう・・と思いました。やはり、口切、炉開きの11月ごろでしょうか?一年中同じようにして売っているので、よくわからないですね。と、、、話しがそれましたが、とても美味しい新茶でした。ごちそうさまでした。

ぼうろ

_pict3939 _pict4014 佐賀の北島というお菓子屋さんの丸芳露(まるぼーろ)です。

ボーロはポルトガル語のボロ(bolo)から来ているそうで、ボロは、「球」とか、「菓子」とかいう意味だそうです。鶏卵素麺と同じく、南蛮菓子をルーツとするお菓子といわれています。

京都の蕎麦ぼうろ、たまごボーロ、衛生ボーロなどもルーツを同じとするお仲間ということになりますね。

近頃、京都以外の場所で行なわれるお茶会で、地元にいいお菓子があるのに、京都のお菓子を使われることが多くなっている、というようなお話しを聞きました。和菓子=京都というイメージが強いのでしょうか?その結果、需要が減って、せっかくのいいお菓子屋さんが廃業されることもあるようです。ほんとに残念なことですよね。京都人として、お茶をしているものとして、考えさせられるお話しでした。

近頃、お菓子の手作りを始めるようになり、色とりどりのきれいな生菓子を作るには、着色料を使わなければならず、今更ながら、お茶のお菓子って着色料だらけだったんだなあと気付いたしだいです。そして、床の間にきれいなお花が入っているのに、どうして人工的に作られた色で着色してまで、また椿、桜、杜若、紫陽花、菊・・といったお花をお菓子で表さなければならないのだろう・・と思うようになりました。15年以上も、お茶のお菓子とはこういうものである、と何の疑いも持たなかったのですが・・。

しょっちゅう旅に出るようなら、自分の足で探して、いいお菓子を見つけて来たいのですが、なかなか行きませんので、現代風に宅配便で送っていただいて、いろんなお菓子に出会いたいなあと思います。今一度、茶の湯におけるお菓子の存在について、見直してみるいい機会になるのではないかなあと思います。

鶏卵素麺

第67回葩会から、当分の間、全国のいろいろなお菓子を味わってみることにしました。今回は、今から400年以上前に、ポルトガルの貿易船でもたらされた、南蛮菓子と言われるお菓子を2つ取り寄せました。

_pict3933 _pict4002 左の写真は、福岡の松屋というお菓子屋さんの鶏卵素麺です。

原材料のところに、氷砂糖、卵黄、グラニュー糖と書いてありますが、まさしく、“卵と砂糖”というお味でした。近頃のお菓子は、原材料が見えにくいものが多いので、こうもクリアーだと、なんかちょっとほっとしました。

お菓子の中に、『御注意』として、  この菓子は形がそうめんに似ていますので、間には湯などをかけられる御方もあるように聞及んで居りますが、決して湯水をかけられずにこのまま適当な寸法に切って御召し上り下さいませ  と書いてあり、そうかー、そういうこともあるのかあーと思いました。

お菓子器は、中国だったと思いますが、おみやげに頂いたものです。お茶か何かが入っていたように思います。わりにねっとりとしたお菓子なので、はらんの葉の上にのせました。

これとよく似たお菓子が、ポルトガルとタイにあるそうです。ポルトガルの方は、「フィオス・ディ・オヴォス」(卵の糸)、タイの方は、「カノム・ホイ・トーン」(甘い卵そうめん)、あるいは「フォイ・トーン」と呼ばれるものだそうです。何百年も前に南蛮船が通ってきた足跡が、こうしてお菓子という形で今も伝わっているなんて、なんかすごいですよね。いつか、ポルトガルとタイに行って、このお菓子を食べてみたいです。

炭、いろいろ

_pict3886 _pict3885 左は備長炭、右は竹炭です。

備長炭はウバメガシなどが原木で、うなぎとか、炭火焼きと書いてあるものは、備長炭が使われているようです。

お茶の時に使う水は、硬水のミネラルウォーターより、軟水の方が美味しいらしいです。水道水は軟水なのでお茶には合っているのですが、カルキの臭いがするので、その臭いをとるため炭で浄化しています。以前は、左の備長炭を使っていたのですが、竹炭の方が、穴?(孔というらしいです)が多く、カルキ等を吸収する力が強いと聞きましたので、最近は竹炭を使っています。で、「どうどう?なんか変わった?」と聞いているのですが、みんな「さあ・・・・」という感じですので、いまいちはっきりしません。お茶に使っているので、水だけを飲み比べているほどはわかりにくいのかもしれません。

この写真を撮るために、炭を軽く洗ったのですが、紙の上において乾かしていたら、竹炭の方から、ぱちぱち・・・とすごい音がしていました。水分が蒸発している時にこの音がでているのだと思いますが、これは孔が多いからでしょうか。。。

しばらく炭特集

しばらく炭特集です。

_pict3421_1お茶のときに使う炭は、寸法が決まっていて、それぞれに名前がついています。

流派によって、寸法、名称が異なるようですが、この写真の炭は、 前列右から、割管炭(わりくだずみ)、丸管炭(まるくだずみ)、枝炭(えだずみ)、胴炭(どうずみ)  後列右から、輪胴(わどう)、割毬打(わりぎっちょ)、丸毬打(まるぎっちょ)、点炭(てんずみ)です。

ちなみに、前列左端の一番大きい炭は、長さが四寸、約12cmくらいです。

お茶の炭は、クヌギの木から作られているそうですが、前列右から3番目の白い枝炭は、つつじなどの枝を焼いたものに、石灰や胡粉で白く塗られているそうです。この枝炭の割れたものを見てみると、中は真っ黒です。

元と末

炭の話しの続きです。_pict3878お茶の時に使う炭はクヌギですが、写真はヒノキです。

先日書いた先生のお言葉を伺ってから、10年近く経っていたと思いますが、ある時大工さんのお話しを伺う機会がありました。木や竹などを乾かす時に、根元に近い方か、先端の部分かどちらを上にして乾かすかで、乾燥の仕方とか、木がどのくらい持つかとかが変わってくるというようなお話しでした。そして、木と竹では全く反対のやり方をされるというお話しだったと思います。

私は、このお話しを聞いて初めて、木の上下というのは、どちらでもいいわけではないのだなあ・・と納得しました。ただ、炭の上下については、それによって火の持ち具合が変わるのか等、まだ全然わかっていません。お詳しい方がいらっしゃいましたら教えていただけたら嬉しいです。お茶には、陰陽五行とか思想的な要素もかなりいろいろなところに取り入れられているので、あるいはそういうことが関係しているのかもしれません。

ではここで、数奇屋大工の中村外二さん(1906~1997)が御本の中で、おっしゃっていることをご参考にご紹介します。

・・・木には元(もと)と末(すえ)があって、それは重要ですよ。元は木の根元に近いほうやし、末いうのは梢(こずえ)に近い部分をいうんです。一本の木でも元をどっちへ持っていくか、末をどっちへ持っていくか、それで部屋の感じがガラッと変わります。元のほうに力がありますからね。元は頭の上に持っていくわけにいかんからね。寝るときに、頭をどっちに持っていくかというのと同じことですや。この家は北向きの家やなとか南向きの家やなとかわかるでしょ。その元末(もとすえ)は方位によっても決めるし、その家の環境もあるし、太陽の関係もあるわね。それらを心得て使うことや。どっちに持っていくかは、それぞれの大工によって変わるやろね。それはもうその大工の感覚ですわ。・・・・

話しは変わりますが、昨日、モーツァルトを聴きに行きました。とてもいい演奏会だったので、どっぷりモーツァルトに浸ることができました。モーツァルトの音楽は、つかみどころがないところがあり、また不意打ちをつかれたようにして心の琴線に響くなあと、聴きながら思っていました。私は音楽に全然詳しくないので、音楽を自分の感性だけで聴いていますが、先日もちょっと書きましたが、お茶は、こうでなければならない・・という縛りにかなり捉われているところがあって、自分で今の自分のことを不自由だなあと思います。いつか、穴から抜け出たと書いたように思いますが、正確に言うと、まだ穴の中で、でもなぜ今、穴にはまったようになっているのかが判明しましたので、ちょっと気が楽になったというのが本当のところです。モーツァルトの音楽のようなお茶。今年はモーツァルト生誕250年。いろいろなところでモーツァルトの音楽が聴けるので、あまり聴かれたことがない方は聴いて見てください(これじゃ、お茶ではなくて音楽の宣伝みたいですが)。私も、また来月、モーツァルトにお会いしに行こうと思います。

炭探求の旅のはじまり

_pict3414お茶の時に使う炭です。お茶の時には、この炭でお湯を沸かします。

私がこの炭のことを一番最初に強く意識したのは、先生がおっしゃったある一言がきっかけでした。それは、

「炭には必ず上下があります。木がもともと生えていた向きに炭をつがなければなりません。炭斗(炭取、すみとり。炭手前をするための炭をいれておく籠などの器)に入れるときに、この炭のどちらが上でどちらが下か、よく見ていれないといけません」

ということでした。言われてみれば当たり前のことなのですが、それまで一度も、炭に上下があるなどということは考えてみたことがありませんでした。

この日から、炭の上下に気を配るようになりましたし、今もこのことには注意しています。が、なぜもと生えていた向きでないといけないのだろう。というそのときに湧いた疑問は、10年以上たった今も持ち続けています。

ここから、私の炭探求の旅が始まりました。もちろん、まだまだ探求中です。もっともっと深く勉強したいのですが、なにせ茶の湯にはありとあらゆることが含まれていて、勉強することが山のようにあるので、なかなか深く掘り下げていくことができません。でも、少しずつ少しずつですが、掘り下げつつあります。その辺のところはまた日を改めて書こうと思います。

モーツァルトの音楽のようなお茶

これは、2006年5月2日の私の思いです。

私にとって、すごいものとは、道を歩いていて、うん!?と何かひっかかるものがあって、道を戻ってよく見ると、「うわ!、すごー」というようなものです。つまり、一見はいかにも凄そうに見えず、普通のものの中に何事もなかったように混ざっているのですが、よく見ると、深い底からうぅーと唸っているようなオーラを発しているものです。

これは、例えば、千利休の道具とか、あと、モーツァルトの音楽にもそういうものを感じます。以前、ある方が、いろいろあって生きる力を失ってしまわれた時に、テレビから五嶋みどりさんの演奏が聴こえてきて、それで生きる勇気が湧いてきた、とおっしゃいました。私はこのお話しを聞いて、たまたま関西で五嶋みどりさんの演奏会があったので、聴きに行ったのですが、まるで、ヴァイオリンが泣いているみたいでした。

この方のこのお話しは、私にとって1つの転機となりました。それまで、「お茶なんて、お嬢さんの道楽やん」とか、いろいろ言われても、こんな素晴らしいものを、わかってないなあ・・、馬耳東風で聞き流していました。私のお茶の先生は素晴らしい方で、茶の湯の本質、私の思うところの、深い底から唸ってくるものをしっかりと見据えていらっしゃいますし、先生ご自身も、そういう存在でいらっしゃいます。ですから、茶の湯のほかの面が見えても、お茶が素晴らしいものであるという認識は微動だに動きませんでした。

それが、この時初めて、疑いの気持ちがおこりました。音楽は、演奏会では、1度に多くの方がこの方と同じようなお気持ちを持つことができるし、またいろいろなご事情により、演奏会場に行くことがお出来にならない方でも、テレビ、ラジオ、CD等で身近で音楽に触れることができます。他方、お茶は、まず第一に必ず、お客様に来ていただく、ご足労願わないといけないものであり、大人数は無理で極々少人数、決まりごとだらけで作法がわからない方は緊張の連続、お膝がお悪いとか正座が難しい方は来ていただきにくい等々・・音楽に比べて、かなり閉鎖的なものなんだなあ・・とこの時初めて思いました。

このことだけではありませんが、このことが大きな契機となって、迷いの旅が始まりました。それから数年間、少し前まで、穴にどっぷりと浸かっていました。迷いの旅は今も続行中ですが、最近、気付かぬうちに穴からいつの間にか抜け出ていましたので、抜け出た記念にブログを始めました。ということに、ブログを始めてから気付きました。

_pict3815

昔の武将は、利休のお茶を一服飲んでから戦場に行きたいと言っていたというようなことを聞いたことがあります。もう二度と生きては帰れないかもしれない、最後に利休のお茶をいただきたいということだと聞きました。でも今は、そういう時代ではありません。

これから先、また変わるかもしれませんが、私はモーツァルトの音楽のようなお茶ができたらいいのになあと思います。ベートーヴェンなんかは、体調とかによってはへービー過ぎるなあと思うこともありますが、モーツァルトの音楽は、胎教にもいいと言われるくらい、万人向けのところがあるように私は思います。でも、底には、深いところから唸ってくるものがあり、でもそれを気付かないで通りすぎていくような、軽やかな心地よさとなって現れてきているので、どんな人、どんな時でも聴ける音楽なのかなあと思います。

私は、モーツァルトの音楽を聴くと、モーツァルトはとても寂しかったのではないかなあといつも思います。それは、モーツァルトが感じるもの、作曲家だからきこえてくるものでしょうか?それを誰とも共有できないからです。モーツァルトにしかきこえないからです。いい音楽を作れば作るほど、さみしさが増していかれたのではないかなあと思います。

モーツァルトの音楽のようなお茶と言っても、じゃ、具体的には?と言われるとまだはっきりしていません。来週、モーツァルトを聴きに行きますので、聴きながら考えてみようかなあと思います。すぐには無理だと思いますが・・・。

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

フォト
2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ